11月9日には、大田市久手町(くてちょう)出身の南画家・西晴雲を訪ねて歩く波根(はね)のまち歩きに参加。
翌10日には、大田町内にある南北八幡宮を歩く、大田はかつて信仰の聖地だった、というプログラムに参加。
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大田の通称・南の宮「鶴丘八幡宮」 |
芸術も宗教も縁遠い存在だと思っていましたが、実際にいろんな話を聞きながら歩いてみるといろんな好奇心を刺激され、自分の中にもこんなツボがあったのか、と気づきました。
西晴雲の方はまた別のポストに書くとして、今回は「大田はかつて信仰の聖地だった」について。
プログラムのコース概要
喜多八幡宮→円應寺 →城山→雪見→西行堂→相生→桜田→諏訪→鶴丘八幡宮
この間をおよそ2時間かけて歩く。
「聖地」に偽りなし
プログラムのタイトルに「信仰の聖地だった」とあり、多少は盛ってるのかな?と思いながら参加しましたが、結論からいえば“偽りなし”でした。
では、どういう事実から「聖地」と考えられているのでしょうか。
それは、神社創建の歴史と密接に結びついているようです。
この神社は、今から約800年前に創建されています。時代で言うと、鎌倉時代です。
そして、神社の名前から想像できると思いますが、その鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮から「御霊分け」されたのが、ここ大田市の鶴丘八幡宮です。
そして、この地に勧請したのが、なんと源頼朝だそうです。
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鉄塔の解説表示 |
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普段は非公開の六角堂 |
今回のプログラムでは、普段公開されていないこの六角堂を開き、鉄塔を見せてもらうということが目玉でした。
この鉄塔、下の写真を見てもらうとイメージしやすいと思いますが、かなり大きなポストのような印象です。
この鉄塔には、鶴丘八幡宮が信仰の聖地だったことを示すように、全国各地から経文や経石(お経を石に刻んだもの)、貨幣などが多数出てきたそうです。
このような六角堂、経文を納めるための鉄塔は全国的にも3つくらいしかなかったそうで、こうして形として伝わっているのは、ここ鶴丘八幡宮だけだとのことでした。
どういう背景事情があって、頼朝がこの石見国に御霊分けしたのか、寄進したのかはわかりませんが、何か地政学的な理由があったのかもしれません。
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六角堂の中に鎮座する鉄塔 |
ただ、結果的にこの鶴丘八幡宮は、後に100年間ほどまさに「信仰の聖地」として、全国各地から参詣者を得たそうです。
そして、現代。
そのような全国各地からの参詣があったことを調べるために、多数の視察、調査に来られているそうです。
ちなみに、鉄塔の中にあった経文は保存の関係で県立博物館に移されているとのことです。
地名の由来
この鶴丘八幡宮の鉄塔は本当にすごいものを見せてもらった、という感じです。
その他、個人的に好奇心を刺激されたのは、地名の由来が2つほどわかったことでした。
ひとつは、雪見(ゆきみ)という地名。
何となく雅な地名ですね。子どもの頃には通学路としてよく通った地域です。
ただ、地名の由来がよくわからなかったんですね。
それが今回歩いてみてわかりました。
これもまた鎌倉時代の人物、西行法師がこの辺りを訪れた時、三瓶山を見て詠んだ歌から来ているそうです。
つまり、雪をかぶった三瓶山を見た西行法師が、
知らずにみればまるで富士山のようだが、ここは石見国、あれは三瓶山
(筆者による超訳、参考にもなりません)
もうひとつは、鶴丘八幡宮が鎮座する「諏訪」という地名。
諏訪というと、諏訪大社がある長野県ですよね。今でこそ、そう思いますが当然子どもの頃にはそんなことは思いもしませんでした。
そんな「諏訪」という地名がなぜ大田に?と思っていましたが、これも謎がとけました。
鶴丘八幡宮はずっと前に、別の神社を合祀しているそうです。その合祀された神社の祭神が建御名方命だったそうです。
そうです。これは国譲り神話に端を発するのですが、 大国主大神に国を譲るよう申し出た所、大国主大神はいいのだが、子どもたちがどう言うか、と回答しました。
そして、大国主大神の子である建御名方は、「ワタシを倒してみろ」と言い、武御雷と戦いました。建御名方も武力に自信があったようですが、武御雷の武力はそれを上回り、建御名方は敗走します。
建御名方が敗走した先こそが、諏訪地方ですね。
その建御名方を祀っていた神社があったため、この辺りの地名が「諏訪」となったそうです。
なるほどね~。
ということで、非常におもしろいプログラムでした。
最後に紹介します。
おおだまるごと みちくさ日和
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