2014年3月11日火曜日

自分なりの3年前のあの日

日が変わって3月11日。


あれから3年


今日で東日本大震災発災から3年が経過します。

西日本に暮らしていると、なかなか東日本、東北地方の今を知る機会がないのですが、幸いにもこちらにいる知人に東北の人がいたりして、被災者としての気持ちなどを聞くことがたまにあります。

そうしたやり取りの中で感じることは、「冷静に」「客観的に」語るということが、彼の地の人たちを深く傷つけている面があるのだということです。

だから、また近いうちに東北を再訪したいと思います。


はじめての東北訪問


前回、はじめて東北を訪れたのは2012年の初夏だったと記憶しています。
行き先は「あまちゃん」で有名になる前夜の岩手県久慈市。途中では盛岡や宮古に立ち寄ったりもしました。

三陸鉄道北リアス線にも乗車し、途中では景色のいいところで止まってくれたり、瓦礫の山が目に飛び込んできたりしました。
田野畑駅では、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のカムパネルラという表示があったように記憶しています。また、駅に入ってきた電車がそれはきれいなピンクのサクラをあしらったデザインで、「あぁ、このようにして復興に向けて動いているんだな。気持ちから明るくしようとしているんだな」と感じました。

直接の被災者ではないけど、自分もあの震災を機に人生を見つめ直した一人です。
会社を辞めて独立することを確固たるものにしたこともつながっています。

そんな、あの日、あの時。自分がどこで何をしていたのか。
明確に覚えているし、今後も忘れることはないと思います。


3年前の“あの日”ワタシは・・・


3年前の今日。
自分がいた場所は、隠岐の島町(島根県)。
シゴトの関係で出張して1泊し、帰る日でした。

シゴトの内容は明確ではないけど、時期的なことを考えるとおそらく、当時役場内で検討されていた、地域担当職員制度の検討に関すること、もしくは隠岐ジオパークについて。

3月11日。帰りのフェリーの出航時間がだいたい3時15分で、乗船開始時間がだいたい2時45分くらい(30分前くらい)。
そうですね。ちょうど発災した瞬間におそらく乗船していたのだと思います。

14:45頃 フェリー乗船手続き開始(西郷港)
14:46  東日本大震災 発災
15:15頃 フェリー出港(西郷港から七類港に向けて)
18:00頃 フェリー接岸(七類港)

乗船後はだいたい2等客室でゴロンと横になるのがいつものパターンで、ふと船内据え付けのテレビに目をやると、テレビの右下に東日本の地図が線で描画され、赤や黄で津波警報が出ていたのを目にしました。
この時は、これほどの大きな地震だとは夢にも思わず、出張の疲れから眠りました。

夕方、七類港(島根県松江市)に近づき目が覚めると、テレビではまだ、というよりも、一層の緊迫感を持って放映していたように思います。
この時の感覚もまだピンときてないけど、「あれ?なんか変だな。もしかしてけっこう大きな地震だったのかな?」という感じでした。

七類港から自宅までは自動車でしたので、ラジオを聞いてたはずですがこの辺からあまり覚えていません。

覚えているのは、あの日隠岐の島町に出張に行っていたこと。


ジオパークとしての自負と自分の限界


その後、ジオパークに関わっていたので、隠岐ジオパークの主要な人たちには隠岐ジオパークとして何かすべきではないのかという漠然とした提案をしました。
東北では磐梯山ジオパークや三陸ジオパークが動き始めていたように記憶していますが、そうしたジオパークとしての横のつながりを示すべきだという思いと、他人事ではない現実だと感じたこと、地球の動きを学び、防災もジオパークの一つの役割だと認識していたことから、漠然としたとはいえ動きを出せないかと打診しました。
寄付でもいい、物資を送るのでもいい。何かできないか?
結果として、企画力不足で当時は何もできなかったことを覚えています。力不足でした。

いま、中国地方でワタシが聞き及んでいるジオパークに関する動きは、島根県では島根大学が「くにびきジオパーク」といったような枠組みで動いていると聞いています。
そこにはもしかしたら大田市石見銀山も入っているのかもしれません。特に島根大学を中心に「ジオサイト100選」を選定されているので、そうした動きは活発かもしれません。

山口県では秋吉台周辺でそのような動きが出始めていると聞いていますが詳細は不明です。

ただ、いずれにしてもジオパークを単なる観光振興、地域振興のためと捉えるのではなく、やはり地球のダイナミズムを知る、防災につなげる、という教育的側面をきちんと認識して、各ジオパークの取り組みの中に位置づけることが大事だと思います。
またそれが、3.11を忘れないことにもつながるのだと思います。


東北再訪を願って


震災翌年にはじめて訪れた東北は、食べるものがどれも美味しかった。
冷麺もいただきました。短角牛の焼き肉もひとりで食べに行きました。鮎も魚介類も、 どれも美味しかった。
泊まった宿はご主人がちょっと愛想悪いかなと思ってたけど、単にシャイな人だったような気もします。また泊まってみたい。

数年のウチには、もう一度東北を訪れてみたい。

まだ大勢の方が仮設住宅で暮らしていると聞きます。まだ大勢の方がご遺体も戻らず気持ちに踏ん切りをつけることができないと思います。

自分ができることといえば、東北を知ろうとすること、行ってみることと、一緒に楽しむことくらいで、この地から彼の地について評論を加えることではないなと思います。

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